日本を代表する飲み物!?知っておくと必ず役立つお茶の雑学を幅広くご紹介

このサイトでは、知っておけば必ず役立つ日本茶に関する雑学を幅広くご紹介しています。
最近は、ペットボトル入りの緑茶やジャスミン茶などが販売されていて、気軽に飲むことができる便利な時代です。
ただ香りを楽しみたいときには茶葉を煎じして淹れるお茶が最高です。
ここでは夏の暑い季節でも楽しめる氷茶の作り方、古くなったものはおいしくないけれどうがい薬で利用できるなど雑学を中心に解説しているので参考にされると良いでしょう。

お茶文化の発祥は中国!その歴史についてご紹介

紀元前2700年頃に神農が薬としてお茶を発見したのが始まりで、その文化は中国が発祥です。
日本に伝わったのは飛鳥時代の遣唐使の派遣によるもので、遣唐使が中国から持ち帰り日本の中で伝わりました。
奈良時代では、唐の陸羽が世界最古といわれるお茶の本―茶径を執筆し、これには言葉の起源や育成適地、製法・飲み方・効能など幅広いお茶の知識がまとめられているといいます。
平安時代には、天台宗の開祖でもある最澄が種を持ち帰って比叡山の麓にそれを植えたとされ、喫茶や栽培など日本の中での最初の記録は日本後期に大僧都の永忠が嵯峨天皇に煎じて奉った、このような記述が残されているようです。
なお、日本のお茶の歴史を大きく変化させたのは栄西、唐から種を持ち帰って栽培や喫茶を開始しました。
高山寺は日本で初めて茶が作られた場所でもあり日本最古の茶園碑が建立されました。
栄西は日本で初めて茶の本でもある喫茶養生記を執筆、この中には種類や薬としての効能なども記述されていて、飲用方法も記録してあり当時は抹茶に近い飲み方をしていたことが分かります。

日本のお茶の歴史を大きく変えたのが栄西

天台宗の開祖「最澄」は、遣唐使として渡った中国からお茶の種子を持ち帰って比叡山の麓にそれを植えたなどの歴史があります。
喫茶およびお茶の栽培においての日本初の記録は日本後記に記述があり、その内容は「大僧都の永忠が嵯峨天皇に茶を煎じて奉った」このような記述です。
これはあくまでも日本の中での歴史の一説であり、お茶の歴史を大きく変化させたのは栄西です。
中国から種を持ち帰って栽培・喫茶を広めました。
ちなみに、観光などで訪れたときなど目にしたことがある人も多いか思われますが、高山寺には日本で初めて茶が作られた場所の証でもある日本最古の茶園碑があります。
栄西は、日本で初めてのお茶の本でもある「喫茶養生記」を執筆し、そこには種類や薬としての効能などが記されると同時に飲用方法も記録されてるといいますが、当時は抹茶のような飲み方をしていたようです。
なお、ペリーが来航して長い鎖国から世界へ港を開いた日本は茶の輸出も行われるようになりました。

人々を夢中にさせたといわれているお茶のゲーム

中国が発祥とされるお茶は、江戸時代になると新茶が出回る4月から5月にかけて宇治茶を幕府に献上することが恒例行事になり、京都から江戸に向かう宇治茶が入っている茶壺を運ぶお茶壺道中が練り歩くようになりました。
なお、中国から日本に伝わったときには薬としての役割があったようですが、その後飲み物で急速に広がって鎌倉時代には全国各地で栽培されるようになりました。
これに加えて中国からお茶を使った遊び、人々を夢中にさせた茶のゲームでもある闘茶も伝来したといいます。
当時は、京都で栽培されたものを本茶、他の地域で栽培されたものは非茶と呼ばれ、味および香りなど本茶と非茶を当てる遊びが闘茶です。
高級品の位置づけを持つお茶も一般庶民が飲めるようになる、武士や庶民の間でも闘茶が大流行して次第にギャンブル性の要素が高まり屋敷を賭ける者が出現したため、幕府からは禁令が出されたようです。
この遊びは現代では茶香服とも呼ばれるゲームのようなもので宇治や各名産地でもイベントの形で開催されます。

庶民が恐れたとされるお茶壺道中とは?

お茶壺道中は江戸時代に行われていたもので、京都から江戸へ宇治茶の入っている茶壺を運ぶことを指します。
「ずいずいずっころばし」は童謡でもおなじみのわらべ歌ですが、この歌には「ちゃつぼ」の歌詞が含まれていますが、これはお茶を運ぶための茶壷そのものを意味するものです。
昔の茶は高級品で、江戸時代には京都宇治の名産としても有名な宇治茶を徳川幕府に献上していた歴史があり、献上のための行事がお茶壺道中です。大勢の家来が行列をなして練り歩くもの、さらに権威ある行事などから一般庶民は行列が通る街道の掃除を命じられ通行の際には道を開けて、ひれ伏の形で行列が過ぎ去るのを待つ必要がありました。
「ずいずいずっころばし」の歌詞には、このような壺道中の村人たちの様子が描かれているといいます。
「茶壺に追われて戸をぴっしゃん」、この部分の歌詞には村人たちが行列のときに粗相があってはならない、このように恐れて音を立てるよう家の戸を閉めた部分です。
これらのことから、この童謡はお茶と人々の生活が密接に関係していたことが歌詞から分かります。